◆仙ノ倉谷 西ゼン  

福寿新一

 平標山付近の稜線は一面の根曲がり竹に覆われ、初秋の涼風が笹原をなでるように吹き上げ、ウエーブが絶え間なく稜線に向かって移動していた。大都会の喧騒や、むせかえるような残暑、忙しかった仕事場を離れ、これから登る沢に心馳せながら見る山並みは、今を生きている喜びと、ほんの一握りの人にしか味わえない山行にチョッピリの優越感とな って私自身の気を和ませた。
 西ゼンは谷川連峰最西端の平標山に北側から突き上げる沢で、新潟県側にある魚野川の一支流、仙の倉谷の上流に位置し、明るく気持ちの良い広大なスラブで知られている。そこをヒタヒタと登るのは「モーサイコー」とは案内書の言。緩傾斜なスラブの写真も遡行意欲をそそった。核心部は第一スラブと第二スラブ、最初のスラブは流水右側の乾いたと ころ、第二スラブは左側が快適に登れるとある。
 上越線土樽駅から仙の倉谷左岸林道を1時間で毛渡沢出会、対岸に渡り40分で入渓点さ らに30分で東ゼンを分けると、いよいよ西ゼンだ。分岐に大きな池のような滝壺、周りが開けていて少しも暗くない。淵を乗越し滑を少し行くと25mの滝。それを越えると80mも あろうかスラブが広がっている。 “これだな! 第一スラブ”。水流右を難なく越してしばらく行くと、さらに大きなスラブ。 “今度は左だな”斜度も相当な物でなかなか手ごわい、案内書の写真ではもっと平でおし ゃべりでもしながらサイコーに楽しく登れるはずであったが、滑りでもしたら止まらずにモミジおろしになりそうだ。カメラを上向きにして撮った写真だったのだろう、聞くと見るでは大違いとはこのことか。
 そこも慎重に越して何故か水流右に渡渉、先はまだ長そうだった。難易度はさらに高くなり水際を歩けず徐々に尾根側に追い上げられていった。あっちへウロウロ、こっちへウロウロしているうちにもう水流付近には戻れず、中年男女7名のグループは行き先を失った。広大に開けた谷で、左上方にこれから行くべき滝が望め、その両側には高さ10m位の垂直な岸壁が鷲の両翼のごとくに立ち塞がっていた。
 3時を回ってしまい危険箇所での彷徨に誰もが疲弊していた。ビバークを余儀なくされ安全な場所を探したけれど、そんな所は望むべくもなかった。7人が膝を曲げて座り頼りないブッシュでセルフビレーを取り、1枚のツエルトを広げて被り、谷川のホームレスと相成ったのである。
 水音は聞こえるので沢の水を取りに行きたかったが、危険を冒して取りに行く気にはなれなかった。水筒の水を集めコーヒーをわかし少しずつ分け、パンをかじって寝たが、一番向うで寝ている輩がツエルトを引っぱるので、こちらは体半分出てしまい寒い。そっと引っ張るも向こうでも引いている。下界の残暑が懐かしかった。
 眠れぬままに煌めく星を見ながらどうしてこうなってしまったか考えたが、よく判らない。リーダーの失態に何の苦情も言わず付いてきてくれるメンバーに頭が下がる。何としても安全に帰さねば・・・
 未明のうちに起きだし、簡単な朝食の後、明るくなる頃には身支度を終えた。皆、早く 帰りたいのだろう。さて、と。真っ直ぐ上に登りあの岸壁の下を左にヘツッて行けば滝口に出られるはずだ。しかし、岸壁直下まで来ると滝口には大きな岩が立ちはだかり、回りこめそうも無かった。あとは岸壁を攀じ登るしかないか・・・
 涸れ滝状で登れそうなところを見つけたがその先がどうなっているか分からない。「様子を見てくるから待つように」と言って登る。一面の根曲がり竹の藪であった。人丈をはるかに超した高さ、強く曲がった竹幹が足の踏み場もないほどに密集していた。が一筋、藪のうすいところがある。降雨時の流水跡か足元の岩塊が見える。行けるかな?と思い下に居る皆に声をかけようと振り返ると、すでに全員登ってきて音も声もなく立っていた。前進する以外に選択肢はない。意を決し竹やぶを進む、流れ跡で薄かった根曲がり竹の藪が次第に濃くなり遂には密集した竹で足が地面に届かなくなり、動けなくなってしまった。腕力だけで登るのは限界があるだろう・・・
 人はこんな時に変な知恵が湧いてくるものだ。数少ない、これまた根曲がり岳樺の木を見つけ、登ってみる。笹薮で何もなかった視界がパッと開け、あの笹原が秋風になびいていた。感激している暇はない、見渡すと右手50mの所にやや低くなった場所があり上方に伸びている。流水跡だ。「右50mに歩けそうなところがあるから頑張ろう」両手で竹を掴み、曲がった根に足を乗せてのトラバースはしんどかったが誰もが夢中だった。
 突然体調に異変を感じる。“エー? こんな所で山ベンか?” 山ベンたって山で弁当を 食べることではない。山へ来ると時々起こる下り腹の自分でつけた隠語で、世間で言う「過敏性腸症候群」というのが近いように思う。便意をもようしても水便みたいなものが出るだけで、本体は出てこない。朝トイレを済まさず歩き出した、こんな日には起こりやすい。これが暴れださない秘けつは行動中に我慢、遠慮ご無用でせっせと放屁するべし。すなわち、おならをしながら歩くのである。とはいっても、知性と教養と高貴な育ちが邪魔をしてついつい半分くらいは我慢してしまう、するとそのうちおならに生ガスが混ざってくる。クワバラクワバラたあこのことか。
 我慢の限界になり皆に「先に行くように」と指示し、事を達しようとするが、なにせ足が地に付いていないのだからどうしようもない。両手を放せば滑り台のごとく滑落しそうだ。見るとまたしても根曲がり岳樺、途中で二股になっており、そこにまたがれば天空の 楽園、しばし前後の苦難も忘れ・・・嗚呼至福のひと時。
 話が脱線した。先を急ごう。もっともルートも逸脱していたが。
 皆に追いつくと読みの通り水流跡は竹も少なく歩くことができた。しばらく行くと根曲がり竹も背丈が低くなって足も地に着くようになり、地面がむき出しになったところに出た。助かった、道に出たかと思いきやその場所だけだった。後で考えれば、あれはデブリの痕だったのだろう。またしても藪こぎ。このくらいになると背丈くらいになり、先が見えるようになった。針葉樹が数本見えそこを目指して歩いていると、それは突然に人の声が聞こえ、稜線を歩く人の頭が見え、登山道があるのが分かった。「でたぞー」先頭を歩いていた仲間の嬉しそうな声が響いた。
 凄惨を極めた谷歩きも、3時間半にわたる大藪漕ぎも最後はあっさりと幕切れとなった。 なぜこんな顛末になったのか、後に遡行図を見ながら、つらつら考えるに、第一スラブと思っていたのは遡行図では手前のナメで、第二スラブと思っていたのが第一スラブであると判った。したがって困難な側を選んで登っていたのだった。
 宿題を残したままでは心残りと翌年リベンジを果たしたが、やはり難しい沢であるのは 変わりなかった。いつまでも鮮明に心に残る思い出の山行となった。


        トップへ